なぜ最初は自動車研究開発者になったのか。
〜漠然と感じていた、社会貢献への想い〜私は宮城県仙台市の4人兄弟の次女として育ちました。小学生低学年の頃、交通事故に遭い、脳の大きな手術をすることになりました。「20歳までに後遺症が出るかもしれない」と言われ、死の恐怖と向き合う中で「いつ死んでも後悔しない人生を生きたい!」と強く意識するようになりました。
そんな情熱を持ちながらも、大きな夢はなかなか見つからないままに高校を卒業。数学が得意だったことから山形大学理学部数学科に入学しました。なんとかここで自分を活かす道を見つけたいと思いましたが、定理を追求する数学科の学びに、社会への直接的な貢献を見いだせず悶々とする日々。そんな時、工学部の講義を受ける機会があり、衝撃を受けました。それは洗濯機の製造に関する授業だったのですが、自分の得意な理系分野の知識を、人々の生活に活かし、社会に貢献できるものはこれだ!と感じました。自分の情熱を傾けるものが見つかったと思いました。
「これこそが自分のやりたいことだ」と、早速理学部から工学部への転部を学校に交渉しました。これまでに前例がないと始めは断られてしまったのですが、何としてもやりたいとの熱意を学校側へ訴え、学校初の理学部から工学部への転部が認められました。
転部してからは、自分の知識を使って人の役に立つモノが作れる工学部の学びに大きな意義を感じ、せっかくの与えられたチャンスを活かそうと、首席で卒業することを自分の目標にしました。その後大学代表として日本機械学会畠山賞を受賞し、首席で卒業することができたことは、今まで何も成し遂げられないと思っていた自分への自信となりました。卒業後は、工学部の知識を活かし、トヨタ自動車部品メーカー「アイシン精機株式会社」(現・アイシン株式会社)の設計エンジニアとして入社することが決まりました。